自分が自分を自分する
生命あるもの、万物、太陽や宇宙、風雨気温すべての存在やその現象は私たちが生きていく上で大切であります。
だが、生きている自分自身は最も大事な存在であるのです。
私たち一人一人の生命は何十億年も前から細胞の書き込みが終わり、僅か0.5%程度の進化の差異を得て自分の生命を現じて来たのです。
自分が自分を自分する。自分自身が正しく自分と出会いその真実無二の命を受用することが最も大事な私たちの生き方であるのです。
よく言われることばで、先祖に顔向けできるのか、おてんとうさまの下を歩けるのかと言います。
これはべつに世間体や社会評価、近所の評判ではなく、自分が自分に対してまともかどうかを自省する言葉ではないでしょうか。
人間一人が誕生して来た理由は生命科学をもってしても大体の概念しか解らないのであり、仏教経典や先人の碩学を学んでも自分のことは解りようがないのです。
自分のことを一番よく知りえる人はやはり自分自身であるのです。
それではどうすればいいのでしょう。どう生きたらいいのでしょう。
私は長年にわたり「どうあるべきかではなく、どうありたいかを中心として生きること。」を進めて来ております。
人間の日常生活の活動や行為はおそらく感覚や感情・神経や筋力などを司る脳と学習知識や理法・学問などを司る脳とがあって、人間が単純に生きていることを支えている脳が主たるもので、言葉や論理・社会ルールなど立ちどまって思考する脳は副の役割だと思えるのです。
人類が進化する過程で、生物としての生存本能がグループ形成をしていく中から言葉を生みだし社会構築の必然性から成長した脳の働きのような気がするのです。
たしかに成長発達を遂げた副脳(仮称)の役割は大きく人類に多大の智恵知識をもたらして来ている。しかし反面、人間社会は主脳(仮称)のもつ生命の司令塔としての役割を日常から遠ざけている感があるのです。
禅の教示する言葉で「個の非思量低を思量せよ」と言う通りで分別は確かに大切でありますが、しかし非思慮の生命実体こそが尊厳でありましょう。
私たち一人一人は、大自然からあるいは神仏から自分という個の命をこの世に「是」として提案されております。
母の胎内からすでに「真実・如是」として進化を果たし、自己として生きる事が許されているからこそ生まれて来た筈です。
富士登山や巡礼などで「六根清浄」と唱えるのを御存知でしょうか、これこそが自分に標準装備された眼耳鼻舌身意を素直に機能させる点検項目だといえます。
ご立派な人生とご機嫌な人生どっちがいいのだろう、私は両方ちっとづつが心地よく感ずる。
だが、生きている自分自身は最も大事な存在であるのです。
私たち一人一人の生命は何十億年も前から細胞の書き込みが終わり、僅か0.5%程度の進化の差異を得て自分の生命を現じて来たのです。
自分が自分を自分する。自分自身が正しく自分と出会いその真実無二の命を受用することが最も大事な私たちの生き方であるのです。
よく言われることばで、先祖に顔向けできるのか、おてんとうさまの下を歩けるのかと言います。
これはべつに世間体や社会評価、近所の評判ではなく、自分が自分に対してまともかどうかを自省する言葉ではないでしょうか。
人間一人が誕生して来た理由は生命科学をもってしても大体の概念しか解らないのであり、仏教経典や先人の碩学を学んでも自分のことは解りようがないのです。
自分のことを一番よく知りえる人はやはり自分自身であるのです。
それではどうすればいいのでしょう。どう生きたらいいのでしょう。
私は長年にわたり「どうあるべきかではなく、どうありたいかを中心として生きること。」を進めて来ております。
人間の日常生活の活動や行為はおそらく感覚や感情・神経や筋力などを司る脳と学習知識や理法・学問などを司る脳とがあって、人間が単純に生きていることを支えている脳が主たるもので、言葉や論理・社会ルールなど立ちどまって思考する脳は副の役割だと思えるのです。
人類が進化する過程で、生物としての生存本能がグループ形成をしていく中から言葉を生みだし社会構築の必然性から成長した脳の働きのような気がするのです。
たしかに成長発達を遂げた副脳(仮称)の役割は大きく人類に多大の智恵知識をもたらして来ている。しかし反面、人間社会は主脳(仮称)のもつ生命の司令塔としての役割を日常から遠ざけている感があるのです。
禅の教示する言葉で「個の非思量低を思量せよ」と言う通りで分別は確かに大切でありますが、しかし非思慮の生命実体こそが尊厳でありましょう。
私たち一人一人は、大自然からあるいは神仏から自分という個の命をこの世に「是」として提案されております。
母の胎内からすでに「真実・如是」として進化を果たし、自己として生きる事が許されているからこそ生まれて来た筈です。
富士登山や巡礼などで「六根清浄」と唱えるのを御存知でしょうか、これこそが自分に標準装備された眼耳鼻舌身意を素直に機能させる点検項目だといえます。
ご立派な人生とご機嫌な人生どっちがいいのだろう、私は両方ちっとづつが心地よく感ずる。